「学」から「進」へ。名古屋大学初のプロ野球選手・松田亘哲の1年:CBC若狭敬一アナインタビュー

中日ドラゴンズ松田投手
松田亘哲。名古屋大学初のプロ野球選手であり、我が経済学部の卒業生だ。去年のドラフト会議で中日ドラゴンズから育成1位指名を受けて入団。柔和な笑顔に黒ぶち眼鏡という外見、江南高校時代はバレーボール部という異色の経歴から全国の注目を集めた。無数のフラッシュを浴びた入団会見では「1年でも長くドラゴンズで貢献できるようなプレーヤーになりたい」と誓った。あれから1年。「松田君、元気にしているかな」「新聞をチェックしているけど、名前を見ないね」「早く試合で投げて欲しい」など多くのキタニアンが気にかけている。先月、オンラインで本人を直撃した。      
「今年は何もできなかったです」。これが第一声だった。「でも、色んな経験ができました」と続いた。今年を漢字一文字で表すと、「学」だという。
プロ1年目は社会人1年目。とにかく必死で着いていく

1月、底冷えするナゴヤ球場で新人合同自主トレが行われた。松田を含めた7人が体力強化に励んだ。「自主トレは怪我防止のために練習量が抑えられていたので、厳しくはありませんでした。ただ、生活環境に慣れること、毎日の流れに着いていくことに必死でした。社会人なら当たり前ですが、学生時代と比べて周りの人がとにかく多い。選手、コーチ、裏方さんなどに挨拶したり、名前を覚えたりすることが大変でした」と振り返る。

2月、キャンプは二軍の読谷球場だった。ホテルは3人部屋。福谷浩司、石川昂弥が同部屋だった。「ドラフト同期の石川と一緒だったのは有難かったです。気軽に話せる相手でしたから。彼はいつも堂々としていて、18歳なのに肝が据わっているなと思いました」と感心。福谷からは多くの学びがあったという。「印象的だったのは『心技体で一番大切なのは体。技術的な問題は体を整えることで解決することが多い』という話です。僕はリリースでボールが高めに浮くんですが、『それは指先ではなく、意外とお尻の硬さが原因。ゆがみを治したり、張りを取ったりすることで直るかも』と指摘されました」。

キャンプについては「練習量が増えたので、着いていくのが精一杯でした。常に体は張っていました」と語る。第3クールからブルペンに入り、40球から50球を投げ込んだが、キャンプ中に試合で登板することはなかった。「他の選手との差を感じましたし、まずはこの練習を当たり前にこなさないとダメだと思いました」と課題を挙げた。

新型コロナウイルスの影響で時間だけが増えていく

3月、名古屋に帰った。待ち受けていたのは新型コロナウイルスだ。4月には緊急事態宣言発令。練習量は激減し、一時は1日おきに2人1組で50分にまで縮小した。「寮生は夜に室内練習場を使えたのですが、それでも少なかったです。あの頃はコロナにかからないことが優先。外出も禁止で、時間を持て余す毎日でした」と話す。松田がコロナ禍で取り組んだのは読書だった。「野球に関係する本やビジネス本。あと、経済の勉強もしました」と笑顔を見せた。西野精治著「スタンフォード式最高の睡眠」、山田知生著「スタンフォード式疲れない体」などを手に取った。

着実なステップアップの陰で忍び寄る左肩の違和感

プロ野球の投手練習には段階がある。キャッチボール、遠投などをクリアすると、BP(バッティングピッチャー)というメニューに移る。これは味方の打者にストレートを投げ、実際に打ってもらう練習。ストレートの威力、ストライクを投げる最低限のコントロールをチェックするのが狙いだ。次のステップはシート打撃。これは味方の打者との真剣勝負。全ての球種を使い、抑えることが目的。この最終試験を終えると、いよいよ試合である。

5月下旬、松田はブルペンに週2、3回のペースで入った。ストレートの他、カーブ、チェンジアップ、スライダーを投げ、80球を超える日もあった。BPも順調にクリアし、6月下旬にはシート打撃に進んだ。しかし、ここで躓く。「打者7人に投げて、ヒット3本を打たれました。石岡(諒太)さん、石垣(雅海)、石橋(康太)の3人。正直、今のストレートは簡単に打たれるなと思いました」と唇を噛む。数日後、2回目のシート打撃に登板。「高松(渡)と岡林(勇希)に投げましが、その日は調子も悪く、コントロールがバラつき、勝負になりませんでした」と肩を落とした。

実は結果以上に松田を苦しめていたものがある。左肩の痛みだ。「5月くらいから違和感があったんですが、何とかメニューはこなせました。でも、徐々に違和感が取れないまま、次の日を迎えることが増えてきて、回復が追い付かない状態に。最後は痛みになりました」と打ち明けた。

初めて味わう人生の挫折。歩みは完全に止まった

7月、病院に行った。診断結果は左肩関節唇及び関節包の損傷。幸い軽度ではあったが、すぐにリハビリ組となった。「全てが止まった感覚でした。大学時代も怪我はあったのですが、投げられなくなることはありませんでした。今まで勉強ではあまり苦労しなかったのですが、野球で初めて人生の挫折を味わいました。そもそも育成なのに、怪我までして、何をしているんだろうと、焦りも生まれました」と告白。「友達から『新聞を見ても投げてないけど、元気?』と連絡があっても、『まぁ、ボチボチね』と返していました。知られたくないというか、気持ちの整理が付かなかったです」。

しかし、松田は前を向いた。誰かに助言を求めることなく、現状を見つめ、自問自答し、一人で結論を出した。その答えはシンプル。「もう治すしかない。この経験は必ず生きるし、活かすしかないと思っています」とキッパリ。「今はリハビリメニューを精査中です。これは痛い、これは痛くないと体で実感して、試行錯誤を繰り返しています」と表情は明るい。「今は自重で負荷をかけるトレーニングに取り組んでいます。例えば、逆立ち。あとは腕立て伏せの状態でローラーの付いた板の上に両足を乗せて、腕だけで前に進むトレーニング。これらをルーティーンにして、回数を増やしながら、肩を強化しています。今になって、体が大事という福谷さんの話が身に沁みます」と語った。

復帰への歩みは一進一退。目指すべき人が近くにいる幸せ

地道なリハビリが奏功し、痛みは消え、キャッチボールを再開した。ブルペンに入り、BPまで進んだが、また状態が落ちた。「知らず知らずのうちに左肩をかばう投げ方になっていました。周りの選手も怪我から一気に回復する人は少なく、みんな良くなったり悪くなったりです」。松田は一から出直し、今はまたブルペンまで来ている。そして、間もなくBPだ。もう後戻りはしたくない。そんな松田に勇気を与える先輩がいる。「マルクさんです。同じ大卒の育成で、1年目は登板なし。マルクさんは怪我ではなく、フォーム修正がうまくいかず、ストレートが走らなくなったそうです。それでも、3年目に支配下選手になって、一軍でも登板。これは本当に大きい。僕たち育成選手の生きる希望なんです」と目を光らせる。

松田は来年を「進」にすると決意。「まずは試合に投げる。投げれば、必ず課題が出るので、それを1つ1つクリアしていく。そして、結果を出す。出し続ける。そうすれば、経済学部の先輩たちに『松田、頑張っているな』と少し誇らしく思って頂けると思います。いつとは明言できないですが、まずは二軍の試合で投げるために努力し続けます」と力を込めた。

注目と期待を集め、新生活に戸惑い、必死に食らい付き、コロナに阻まれ、怪我で苦しみ、再び歩き出した松田。今回、辛い経験、新たな発見、偽らざる心境、全てを吐露した。その姿には強さを感じた。きっと読者の多くは「若い時の苦労は買ってでもしろ」と異口同音に言うだろう。キタニアンとして、同じ学び舎で同じ空気を吸った左腕の一歩一歩を温かく見守りたい。止まった針は進み始めている。ゆっくりと、力強く。

インタビュー、文; CBCアナウンサー 若狭 敬一(平成10年卒)